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フェズからマラケシュには、一等席の電車で7時間かけて移動した。
二等席が自由席の向かい合わせで8席に対し、全て指定席の6席。
途中下車のある電車ではある程度の警戒心が必要な為、バスに比べ精神的に疲れる。


マラケシュのジャマル・エル・フナ広場は、太鼓が鳴り響き、鐘の音がリズムを刻み、蛍光フープが宙を舞う、人種のるつぼだった。
このお祭り騒ぎが毎晩夜中まで続くのだから、人が集まらないわけがない。
聞きしに勝る喧騒ではあるが、客引きがフェズに比べると全然しつこくない。都会の余裕みたいなものを感じた。

ただ、フナ広場の中心に連なる屋台だけは別だ。ここを通過する者は、全屋台の呼び込みにしつこい勧誘を受けることになる。
屋台には全部番号が振られているが、海鮮フリット専門の14番屋台がオススメという情報を事前に入手していた。
エビ、イカ、魚のフリットの盛り合わせにパンとサラダとドリンクがついて、一人あたり250円。味も間違いない。店員らの空気感もよく、二度ここで食べた。

生搾りのフルーツジュース屋台も見逃せない。いくつも連なっているため、どの屋台にするか迷うところだが、ジャパン、コンニチハなどと声をかけてこない寡黙な店主の店を迷わず選ぶ。

ミックスジュースもバカウマだが、個人的にはグラナダ(ザクロ)ジュースにハマった。惜しげも無く使われるザクロの仄かな苦味と爽やかな甘さは、一気に飲むのが勿体無く、しみじみと美味い。


翌朝から、二泊三日のサハラ砂漠ツアーに参加。
モロッコに来て砂漠に行かないわけにはいかないと、日本で予約したのだが、一人11,000円とそれなりに高額だった。
宿泊した宿の主人には、3000円くらいで手配できたのにと言われた。


ツアーの大半は小型バスでの移動で、要所要所で、映画の撮影などで使われた名所などを観光する。



アイトベンハッドゥ、ワルザザート、トドラ渓谷。



イギリス人さえ聞き取れない英語で、同じ台詞を繰り返す怠慢なガイドにチップを払い、モロッコ人らの癒着構造を、絨毯を引張替えすごとく見せつけられながら、アトラス山脈を越え、やがて砂丘に至る砂漠の荒野を移動する。



広げては紹介し、畳んではまた広げるベルベル人の絨毯屋は、しつこく押し売りはしてこない。写真の小さ目のやつ(一万円くらい)はイギリス人が一枚買ったようだ。

ランチはツアー費に含まれておらず自腹なのだが、指定されたレストランの料理は高額のうえ、不味かった。それ以降、昼食はフルーツなどで済ませる。

一日目の移動を終えてたどり着いたホテルは萎びていて、部屋は寒々としていた。おまけに、エアコンは備え付けてあるのにリモコンが奪われていた。
フロントに問いただすと、ホテル内のエネルギーがダウンしちゃってると、相変わらず話にならない。
晩飯も朝食も萎びたホテル同様、萎びていた。
シャワーがホットだったことが唯一の救いだが、完全防寒状態で布団に包まってもまだ寒かった。

2日目もひたすら車で移動。時折、砂漠がもたらしたオアシスの如き赤い町がふいに現れる。



同じバスに日本人の若い男5人組が乗り合わせているのだが、まだ言葉を交わしていない。
日本人同士は海外で顔を合わせても、あまりコミュニケーションを取らないらしく、海外の人々にしたら異常に思われると聞いたことがあるが、なるほど、こういうことかと納得。



予定通り、夕暮れ前には世界一広大なサハラ砂漠の玄関、メルズーカ大砂丘に到着した。
一列に繋がれたラクダに乗って、ベルベル人のテントへ移動。ラクダの乗りごごちはそれほど悪くないが、下る際には急にスピードアップするため、落ち着いて写真が撮れない。
途中でラクダを降りて徒歩で移動し、1時間ほどで、今夜宿泊するテントのあるキャンプに到着。

ちなみに、前述の日本人らは別のキャンプ場だったようで、翌朝ホテルで合流した際に話を聞くことができた。
彼らのキャンプ場は結構遠かったらしく、1時間半ラクダで移動して腰を痛め、翌朝は一人1000円払って車をチャーターしたとのこと。随分とぼられたようだ。

砂丘を登り、夕日を観賞し、日没後はテントで夕食。この旅ベスト級のタジン鍋だった。
夕食後は、世界各国の旅人たちとキャンプファイヤーを囲い、しばし歓談。

キャンプファイヤーの火も収束し、皆が寝静まった頃合いを見計らってテントを抜け出し、一人砂漠でワインを飲んだ。
静寂と、ワインと、満天の星空を堪能し、何かしらインスピレーションを受けた気がするが、それが何であるかはまだわからない。



そして、ついに旅の最終地エッサウィラへ。
スペイン&モロッコの一ヶ月の旅を終え、東京に帰ってきました。
旅行記は引き続き、アップしていきます。

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モロッコを旅していて感じるのは、どの街の人々も程度の差こそあれ金太郎飴で、その中心を占めているのは、文字通り「金」だ。

とはいえ、金太郎の表情は、状況に応じて様々な陰影を成し、謎が謎を呼ぶことになる。



モロッコ人が話しかけてくる理由は、販売、ガイド希望、交通手段の斡旋など、いずれにせよ金銭目的だ。

当然、適当にあしらって、アプリの地図を頼りに歩き出すと「そっちじゃない。あっち!」と、別の方向を指差したモロッコ人の指摘が正しかったことを、後に知ることになる。

テトゥアンは、世界三大うざい国とされるモロッコの中でも、比較的落ち着いた街ということだったが、モロッコ人の親切を無視し、薄暗い夜の路地を彷徨っている間、延々とビニール袋を口に充てた男に付きまとわれた。
この手の輩は、野良犬に対処するときと同様、こちらから威嚇し返さないと去ってはくれないようだ。


テトゥアンでは、街中の葬列に立ち会った。
「地球の歩き方」で紹介されていた酒の販売店を探し求めて(結局、酒屋は見つからなかったのだが)、新市街の郵便局前をうろついていた時、車道の向こうから端に避けとジェスチャーをしながら、男たちが猛然と直進してきた。
路肩に避け、周囲を見渡すと、現地人らが皆一様に黙祷をしていた。
木製の棺を数人の男たちが担いで通り過ぎ、それが葬儀の列であることがわかった。



翌日は、テトゥアンからバスでシェフシャウエンへ移動。



シェフシャウエンは、モロッコ観光の広告に使われることが多い、青の街だ。
旧市街は鮮やかなブルーで染められ、木の根元まで青く塗られている徹底ぶりだ。
映える写真を撮ろうと彼女を連写するアジア人の彼氏につきまとう蝿の頭も青かった。

翌日は、シャウエンからフェズまでバスで5時間かけて移動。
トイレ休憩の際、荷車屋台を広げた黒人少年からオレンジを購入。1キロ強8個で40円。ナイスな笑顔でディスカウントしてくれた。地中海産のオレンジは、甘くみずみずしく、これまで買わなかったことを後悔。

バスの移動中は、どこまでも荒野が続く。彼方のアトラス山脈の岩肌が陽に照らされ、肥沃とは程遠い大地に、オリーブやオレンジの木がポツりポツり点在し、羊や山羊や牛や馬が、そこら辺で草を食んでいる。




大体にして、新しい街に到着し、宿に向かうまでが、もっとも負のエネルギーを感じるようだ。
しつこい物売り、一触即発の空気、渦巻くフラストレーション。

モロッコもスペイン同様、円形交差点で、ほとんど信号がない。
道路を横断するには、猛スピードで突っ込んでくる車の前に、自殺志願者のように飛び出すしかないが、そのまま突っ込んでくる車も多い。その時は、こちらが停まるしかない。

メディナの狭い迷宮のなかも、バイクは猛スピードで横10センチを駆け抜け、荷車や馬車が狭い路地をひっきりなしに行き来する。
1日に何度かは接触事故を起こしそうな感じだが、幸いにして、今のところ、そのような悲劇的状況に出くわしていない。

さて、3日間の禁酒期間の後に、ようやくフェズの新市街のショッピングモール内にあるカルフールでワインをゲットした。



ショッピングモールの前には、年末のせいもあってか、現地人らが押し合いへし合い群がっていて、ガードマンがずらりと入り口に並び、行く手を塞いでいた。
入場規制なのか、何か事故でもあったのか、その隙を縫ってモロッコっ子の一人がドアを突破するや、皆、雪崩れ込むようにその入り口に殺到した。
我々も、満員電車の流れに乗るように便乗し、ショッピングモール内への入場に成功。

酒の販売所は、他の食品売り場とは入り口が違う。
敬虔なムスリムやよい子の目に入らぬよう、厳重注意しているといったところか。
もっとも、合法である酒が入手困難な一方、モロッコでも非合法の大麻に関しては、国民のほとんどが売人なのではと疑いたくなるほど、一日中、ジャパン、コンニチハ、ハッパハッパなどと声をかけられる。
八百屋の呼びかけをやり過ごすように完全無視を決め込むしかないが、日本人をバカにしてんのかと若干イラついてくる。
続いて、中国語バージョンや韓国語バージョンを耳にし、なるほどねと納得。
ちなみに、モロッコの公用語はアラビア語で、続いてフランス語。宿では英語も大抵通じる。


世界一の迷宮都市と称されるフェズのメディナは、世界遺産にも登録されている。

高台から眺める都市の全景は、1000年前と殆ど変わっていないらしい。

つまりそれは、タイムマシンに乗って1,000年前の景色を見ていることと同じなのだというロマンチシズムは、実際に目の当たりにすると、そんなわけがあるかという当たり前の事実に取って代わる。

世界一の迷宮都市とはいっても、交錯する2本のメイン通りと、中心部のモスクさえ押さえておけば、それほど迷うことはない。
丸2日は迷宮を彷徨ったので、ある程度の全体像は把握できた。


肉屋の前にこれ見よがしに並べられた6つの羊の生首は、初め、断末魔の表情を浮かべていたのが、3日目にはブンブン蝿がたかっているのがいかにも似合った表情に変わっている。

こんがりと焼き色を付けながら回転している鶏肉の前で、コッコと首を振って歩く鶏に、つい笑みが溢れる。

迷宮の人混みに不意に出くわす銅像のような馬の一様に哀しげな眼差しと、糞の臭い。

鞭を振るってロバに叱咤するロバ似のおっさんに、ロバをそんなに虐めるなと叱咤するジュラバ姿のおばさん。

チップはいらないから、革のなめし工場に連れて行ってあげるとムスリム女性に迷宮をグイグイとジグザクに誘導され、ビルの中で店の主人のおっさんにバトンタッチし、女は立ち去る。
おっさんは各階を案内し、屋上からなめし革工場を見学させ、伝統工芸の素晴らしさを説明し、さて、どれを購入するかねと強引に金銭交渉を開始。
特に欲しいものは見つからず、だったらチップよこせ!と叫ぶおっさんを無視し、強引には強引で、あばよと立ち去った。

基本的にメディナの中では、落ち着いて休憩などできない。
カフェでミントティーやコーヒーを飲んでいる時でさえ、物乞いが手を差し出し、葉っぱ売りに声をかけられ、大道芸人が目の前で演奏してはチップを要求してくる。

迷宮散策にも疲れたし、天気も良かったし、屋上で絵を描いたり旅行記を書いたりして過ごそうと思い、宿に帰ってきた時のこと。


宿の屋上からの景色は、薄汚れたバラックと剥き出しの石壁が所狭しと連なっている。
石壁の先端に止まった、隣の家で飼われた鳩は、パスティラという、ミートサンドイッチの具になるようだ。

鳩を撮影していると、向かいの塔に思春期の少年がよじ登り、唐突に親子喧嘩が始まった。
屋根に登った少年は、叫びながら階下に石を投げつけ、トタンが砕ける音が何度も炸裂し、ヒステリックな応酬はどんどんエスカレートし続けた。
とてもじゃないが、落ち着いてお絵かきをする雰囲気ではない。
再び迷宮の中へ。



そんな日も、唐突に街の至る所でアザーンが拡声器から鳴り響く。
一日5回、祈りの時間を報せるアザーンが、どのような時間的な規則性で鳴らされているのかは、終ぞわからなかった。

冬のモロッコは、日中は海に入れそうなほど日差しが強いが、日没後の急な温暖差に加え、お湯の出ないシャワー、暖房のない部屋、湿った布団などが重なると、思いのほかダメージをくらう。

年末年始に3泊したフェズの宿は、この旅最高額の宿だったが、2日間シャワーのお湯が出なかった。
明らかな契約違反だが、宿代を前払いで払っていたため、こちらとしては抗議する他ない。
残念ながら誠意とは程遠い対応を受け、「だったら警察呼びやがれ!」と、最終的に開き直ったオーナーからは、ディスカウント代すらビタ一文受け取ることなく、立ち去った。
ハムラビ法典は採用しないが、ブッキングドットコムの宿評価では、最低点を付けるつもりだ。

スペインの最南端アルヘシラスは、モロッコの玄関口というだけあって、看板にはアラビア文字が踊り、モロッコ人の姿もちらほらと目に付いた。スペインからフェリーでモロッコ入りするには、三通りの方法がある。
今回は、宿がある旧タンジェ港に着岸する、タリファ発の高速船に乗った。アルヘシラス港からは、タリファ港行きの無料バスが出ている。
バス停のベンチに座っているも、説明されていたフェリー会社のロゴ入りのバスがいつまで経ってもこない。
別の会社のバスの前を横切ると、運転手がチッチッチと人差し指を振っている。「君らはこのバスじゃないよね?」と言うことだろうと、「違う」と、同じくチッチッチと指を振り返したら、どこからか青年が走ってきて、「君たち、このバスだよ!」と、知らされた。またしても、ギリギリセーフだ。
フェリーに乗船し、早速簡易的な入国審査を済ます。
ジブラルタル海峡を渡ること1時間。アフリカ初上陸を果たした。

たった1時間とはいえ、国境の海の向こうの世界は、いきなりの異世界だ。
迷宮のように入り組んだタンジェのメディナ(旧市街)は、モロッコの中では小ぶりな方らしいが、喧騒と鬱陶しさはスペインの比ではない。

宿に到着するまでに、10回以上、ノーサンキュー!と声を上げることになった。
スペインではほぼ日本人と気づかれたが、タンジェではやたらニイハオ!と声をかけられる。
ニイハオ!ニイハオ!ニイハオ!たまに、コンニチワ!

タンジェの宿Diafaには、この旅で初めて、ブッキングドットコムで満点を付けた。
安宿なのに清潔で、屋上からの見晴らしは最高。キッチンや洗濯機もあり、軽い朝食まで付いていた。ウェルカムドリンクには、アジの唐揚げが添えてあり、これがめちゃ美味しかった。
モロッコの玄関口、タンジェに魅了されたアーティストは多い。
ポール・ボウルズ、バロウズ、ギンズバーグ、ケルアック、マチス、ドラクロワ、ローリングストーンズ。
つい最近まで、タンジェは国際商人や密輸やスパイの拠点だったようだが、それほど危険な感じはなかった。

宿からほど近くのcafe hafaは、1921年にオープンしたカフェで、タンジェ在住のアーティストたちの溜まり場でもあり、ヒッピーの聖地らしい。なるほど、客のドレッド率が高く、派手な帽子を被った日本人にも、やけに親和的な眼差しを向けるわけだ。

階段状になったテラスからの景観が気持ちよかった。
席に着いたら、何も言わずに温かいミントティーを置かれた。砂糖入りの緑茶に、生のミントがぎっしりと詰まったミントティーは、モロッコならではの贅沢な気分を提供してくれる。
結局、ミントティー代は支払わなかったが、あれはサービスだったのだろうか。未だに謎。
hafaのレストランで、初めてモロッコ料理を食べたが、想像以上に美味く、量もたっぷりだった。
何しろ、サラダを注文したはずが、山盛りのライスにパンとオリーブに加え、ポテトフライまで付いていた。
モロッコでは、レストランでも猫を飼っている。

わけではなく、観光客に媚び売って、食い物を貰って生き延びている野良猫たちだった。
レストランのスタッフは、シッシッと追い払いながら店内を歩いているが、完全に追い払わないということは、半ば共存しているということだろう。
飯を食っている最中に、二足で立ってまでして「分けろよ!」とばかりに、腕をパシンと弾いてきた奴には、最後にお裾分けした。
その日は夜のメディナを散策し、前日の残りのワインを飲んだ。
翌日は、観光地をさっと巡り、新市街を酒を求めて迷走するも、見つからず。

さらに、タンジェからアシラに移動の予定も、乗り合いバスの場所が見つからず、歩き彷徨うこと5時間強。
全くの異文化に臆する気持ちと、全く言葉が通じないという状況の洗礼を受けることになった。
ようやく乗り込んだ電車の2等客室は、8人の相席ごとに区切られていて、ぎゅうぎゅう詰状態。
各国の人々と無言で向き合うこと1時間。アシラの宿に到着した時はすでに陽は落ちていた。

夕食後、街を彷徨いながら、再び酒を売っている店を求めて視線をキョロつかせるも、見つからず(しつこい)。
モロッコ人の大半はイスラム教徒ゆえ、酒と豚肉が禁止されているとはいえ、観光客向けに、僅かながら酒を出すバーや店があるという前情報を頼りに探すも、全く見つからず。
結局、この夜は酒にあり付けず、宿のシャワーはほぼ水で、暖房がなく、外出している時以上の厚着で寝た。

どうして手に入れられないと諦めると、案外開け直るのか、酒なしでもぐっすり眠れた。
翌朝、アラビア語しか話せない宿のスタッフ陣と、一悶着があった。
どうやら、チェックイン時の会計のさい、お釣りを千円多く渡してしまったと言っているようだが、そんな馬鹿げた後出し答弁に、納得できるはずもない。
大方、釣り銭の清算が合わなくて、全員に同じことを言っていたのだろうと算段し、「我々には身に覚えのないことだ。よって、返金する気はない」と、グーグル翻訳でアラビア語の文章に変換して見せた。
窓口の青年は必死になってスマホに向かってアラビア語で何やら早口で話すのだが、何度試しても、なぜか、「1986」とか、意味不明な文字に変換され、青年は何度も首を振り、ため息をついた。
多分、早口過ぎて認識されなかったんだろうな。
一方通行同士のやり取りは静かにフェードアウトし、後で登場してきた宿の主人は落胆のため息をつき、昨夜はフレンドリーだった青年も、終いには哀しげにうっすら涙すら溜めていた。
「だったら、ミスするんじゃねえ!」
と、いうことで、ガックリ肩を落としたままの青年に鍵を渡し、「じゃあな」と、やや加害者気分で寒すぎた宿を後にした。
ところで、モロッコはチップ文化のある国なのだが、タクシー10キロ走らせて100円の国のチップ代が100円から200円という感覚に、いまいち慣れない。
公園のトイレに男女の表記がなく、どっちかなと迷っていると、キラキラした目の少年が、あっち!と、指さす。どうやらチップを求めるバイトだったようだが、どうせ、男女の区別のマークを剥ぐか取り外して、チップ目当てに潜伏していたのだろう。
そんなような場合は、せいぜい10円か飴玉一個くらいが妥当なのだろうと検討を付け、今後はポケットに1dhをいくつかと、飴玉を忍ばせておくことにした。
アシラは、メディナ(旧市街)内の壁に無数のアート作品が描かれているとの事前情報で、楽しみにしていた。


年に一回、世界各地からアーティストらが壁画を描きにくるとのことだったが、思っていたほどには点数は多くなかった。


アシラからテトゥアンに移動するには、一度タンジェに電車で戻り、それからテトゥアン行きのバスに乗るしかない。
アシラの路上でタクシーを拾って駅へ。感じの良さそうな運転手だったから、あえて交渉はせず、下車の際に黙って100円分の硬貨を渡したら、満足気にニイハオ。なるほど、昨夜乗った乗り合いタクシーの運転手には、ボラれていたようだと気づく。
タンジェ駅を降り、40分ほど歩くと、大型のバス停がある。
前方を歩く家族3人が同方向に向かって歩いていたので、なんとなく数メートルほど後方をついて行った。
30分くらいして、突然、20歳くらいの娘が振り返って、「ウェルカム トゥ ザ モロッコ」とにこやかに我々に声をかけてきた。それだけ言って、後は再び黙々としばらく歩き、別の道へそれて行った。
一体、なんなんだ。。
バス停には何台かが停車していた。行き先が書かれていないバスもあるので、片っ端から運転手に聞いて回るしかない。
その間も、乗り合いタクシーの誘いにしつこく付きまとわれる。声をかけてくるやつらは、大体詐欺師にしか見えなくなってくる。
しばらくして、「テトゥアン!テトゥアン!テトゥアン!」と、リズミカルな拍子が聞こえてきて、無事、テトゥアン行きのバスに乗ることができた。
2019.01.02 謹賀新年
明けましておめでとうございます。
昨年は、大変お世話になりました。
今年もよろしくお願い致します!!

世界一の迷宮都市、モロッコのフェズにて。
フラメンコ発祥の地、セビーリャに到着したのは、22日の夕暮れ時だった。

街中の至るところで、ミュージシャンやダンサーが路上ライブをしていて、周囲には人だかりができていた。
楽器屋や、フラメンコを演奏する地元の店(タブラオ)もちらほら目についた。
2泊予定しているドミトリーの宿にチェックインし、予定していた老舗タブラオ、ロスガリョスに向かい、20:30スタートのチケットを購入した。
ロスガリョスには、一流のスタープレイヤーのみが出演し、団体客などは入場できないようだ。
1時間半のステージには総勢10人のアーティストが出演し、ワンドリンク付きで4500円くらい。

会場内の撮影は禁止。廊下には歴代のスターたちが紹介されていた。
もっと安いタブラオもあるが、せっかくフラメンコ発祥の地に来たなら、最高峰を味わいたい。
50人ほどの客席の間近で浴びた1時間半のステージは、圧巻の一言だった。
先日のブログに倣って言うなら、もしもスペインに一泊だけ泊まるなら、セビーリャのロスガリョスに行くべしと、断言したい。
フラメンコの、土着的で、情熱的で、洗練の為の洗練に向かうことを拒否しながらも、とことんエンターテイメントなステージは、今後の自分にとって、多くのヒントが含まれているように感じた。
 翌朝は、ネットで予約していたアルカサルと、スペイン最大のカテドラルセビリア大聖堂へ。
アルカサル

世界で三番目に大きい大聖堂

市場
広場とかで、アマチュアグループが演奏するフラメンコも楽しんでいる感が伝わってくる。

ずいぶん歩いたし、見るべきものは見たので、夕方頃には宿に帰り、共有スペースで夕食を終え、ヨメは9時頃にはドミトリールームへ眠りに行った。
自分は、共有スペースでワインを飲みながらブログを書いていたが、まだ飲み足りなく、セーフティボックスから財布を取り、近くのスーパーでビールを買ってきて、飲みながらブログの続きを書いた。
共有スペースでは、言語交流のできる各国の若者たちが狂騒的に盛り上がっており、一本空けてさすがに眠く、部屋に戻ろうとして、絶句した。
部屋の入り口付近に設置されたセーフティボックスの鍵がかかっておらず、扉の隙間から、パスポートや全財産の入った財布が見えているではないか!
慌てて中身をチェックしたが、何も盗まれてはいなかった。
セーフ!ていうか、アウト!
ここで旅が終わっていた可能性も充分あったわ‥。
確かに、そのナンバー式のセーフティボックスは、時折かからないことがあった。素面なら確認する所だが、母島の港で寝ていた酔いどれボネが、ここに来て。。
3日後にアフリカ入りする前に、兜の緒を締めるきっかけになったと、楽観的に捉えるしかあるまい。

翌24日の予定は、早朝からセビーリャからマラガにALSAバスで移動し、コスタ・デル・ソルを巡る予定だった。
コスタ・デル・ソルとは、アンダルシア地方の、主に地中海に面した、温暖で年中海水浴ができる避暑地的地区を指すようだ。
当初の予定では、クロマニヨン人の住居跡のある洞窟が魅力的な街、ネルハへバスで移動し、スペインで最も美しい村に認定されたことのある、絵葉書のように美しい村、フリヒリアナに寄り道してから、地中海沿いのフエンヒロラ方面に移動する予定だったが、面倒くさくなって、マラガをふらついてそのまま宿に向かうことにした。
コスタ・デル・ソルの中心地であるマラガは、エキゾチシズム皆無の普通の大きな街だった。大型ショッピングセンターがあり、デパートもあり、様々な人種が生活しているようだ。
また、ピカソの出身地でもあり、美術館から歩いて行ける生家には、ピカソパパの絵やピカソの幼少期の創作物やらが展示されているらしいが、面倒くさくて、それもパス。
その代わり、ピカソマラガ美術館をゆっくりと鑑賞した。
日本語のガイドもあり、晩年の作品が多く展示されたこの美術館は、自分的には今回の旅で最もグッときた美術館だった。
栄華を極め尽くした西洋絵画の歴史を垣間見た後だからか、それらを正統に継承しながらも幾度も破壊し、自由を求め続けたピカソは、とてつもなくかっこいいと感じた。
見るべきものは見たので、マラガからトレブランカまで電車で移動し、宿に向かった。

あなたがもしも、スペインを旅したことがあるならば、トレブランカ?どこ、それ?と、思うことだろう。
フエンヒロラの二つ手前の無人駅で、近くにこじんまりとしたビーチがある。駅から宿までは、徒歩30分くらいだが、尋常じゃなく急な坂道が続く。
道すがらには、避暑地よろしく、やたらと豪華な建物が並んでいた。
高台にあった宿は、周囲に比べ、一際こじんまりとしていたが、一応プール付きで、これまでの宿の中では一番設備が整っていた。洗濯機もあるやんけと、意気揚々と放り込んだのだが、4時間もかかって脱水まで。乾燥機もついていなかった。こんなんなら、これまで通り、手揉み洗いで充分だった。
クリスマスイブということで、店は軒並み閉まっていたが、海岸沿いに奇跡的に一軒だけスーパーが営業していた。宿にキッチンと電子レンジが常備されていたので、ぶっといハーブソーセージをフライパンで転がし、クォーンという冷凍食品を10分間チンした。レンジから取り出すと、写真の仕上がりとは全然違う、賽の目状の豆腐みたいなパサパサの物体が湯気を発していた。 

なんじゃこりゃ、と、ネットで検索したところ、菌類をベースにした人口肉で、食糧危機を見据えた、イギリスを中心に世界的に注目されつつある食材であることが明らかになった。
日本ではまだ売られていないらしく、ちょっとした先物買い感を味わえたわけだが、生ハムとソーセージと人口肉という組み合わせがもたらす滑稽さはどうにもならない。
 
翌朝は、電車でフエンヒロラに向かい、エステポナ行きのバスの出発まで港や砂浜をブラついた。
遠投する釣り人や、泳いでいる者も僅かながらいて、海水の水温は母島の元旦ほどで、かなり透明度が高かった。

スペインでは、クリスマスはひと昔前の日本の元旦みたいな感覚らしく、店はほとんど閉じている。
エステポナはそれなりに開かれた港街のようだが、市場もスーパーも軒並み閉まっていた。この日は、エステポナからバスで40分ほどの、カサレスという人口3000人ほどの村へ移動する予定なのだが、バスまで運休していた。仕方なく、スペインに来て、初めてタクシーに乗車した。
スペインはタクシーがかなり安いのだが、カサレス行きには、エステポナへの往復料金が含まれるようで、割高だった。
タクシー運転手はいい感じの人で、ロンダにも是非行くことをおすすめするよと言われた。ロンダは岩の上や下に街が出来ている奇妙な景観で有名な観光名所だが、今回は、日程的に諦めていた。
評判通り、カサレスには観光客はほとんどいなく、おもちゃの国を思わせる白い街並がぎっしりと並んでいた。近づいて見ると、それなりに薄汚れているのだが、観光用の写真には当然写らない。

観光地としてそれほど力を入れてない感じが、観光客からしたら新鮮に映るのかもしれない。
それはそうと、今夜が酒なしの缶詰一缶になるかどうかが、最優先事項なのは、言うまでもない。
宿のおかみさんに聞いたスーパーに神頼みの心持ちで赴くと、シエスタ後の18:00から2時間、商店が開くと張り紙があり、諦めていた夕食とワインがゲットできる!と、心踊らせた。
スペイン最後の夜が明け、早朝のバスでエステポナのバスステーションへ、そこから乗り換え、モロッコへの玄関口、アルヘシアスへ向かった。

ありがとう、バス停近くのスーパー。
スペインの南に広大に広がるアンダルシア地方は、フラメンコや闘牛、白い家の街並みなど、イメージ通りのスペインが凝縮されている。みたいなことが、ガイドブックには書かれている。
最初の地点はスペイン語でザクロを意味するグラナダ。
グラナダの空は青く、陽射しは尋常じゃなく強かったが、想像していたような辺境感はなく、普通に都会だった。

スペインを旅して、強く印象に残ることの一つは、眩しすぎる太陽だ。夜明けから日没まで、その強さは変わらない。
この季節でも日中は暑いくらいだが、陽が沈むと急激に寒くなる。そのせいか、人々の格好も厚着から薄着まで疎らで統一感がない。
陽射しの強さは植物の成長にも影響を与えているらしく、市場で見た野菜はどれも巨大で、甘唐辛子はバナナほど、キャベツもゴリラの頭ほどでかい。果物のサイズは、それほど日本と変わらない。
グラナダへは、マドリッドから高速バスで5時間ほどかかる。距離によってバス内サービスは若干異なる。バルセロナ、マドリッド間の8時間コースほどには充実していなかったが、映画やゲームや音楽など、長距離飛行機とそれほど変わらないサービスが備え付けられている。
ALSA社の高速バスは、基本的に定時に出発し、予定通り到着する。煙草休憩をトイレ休憩と勘違いし、置いていかれそうになったことがあった。
ついでに、スペインの煙草事情についても軽く触れておこう。
スペインは、基本的に建物内は全て禁煙。宿もそうだが、大体バルコニーがある。店の外にもほぼ灰皿が置いてあり、なければ路上喫煙で問題ない。
街によって異なるが、20年前の日本同様、皆、歩き煙草をしている。ゴミ箱と灰皿は街中の至るところにあるが、普通に道端に捨てる者が多い。
愛煙家が多い国柄なのは間違いないが、煙草のジャケットがえげつない。遺体の前で泣き崩れる遺族とか、ボロボロになった虫歯のアップとか、ほとんどギャグにしか思えないが、観光地化をもくろむ行政側の、必死の策略なのかもしれない。
グラナダの宿にチェックインしたのは午後3時頃で、徒歩30分ほどのカルトゥハ修道院へまず向かった。

、毎度のことながら、なんじゃこりゃ的な、豪華絢爛なカトリック教会を堪能し、11世紀にイスラム教徒によって築かれたグラナダ最古の街並を残すアルバイシン地区へ。
絵葉書などで定番の、高台にあるサン・ニコラス展望台に到着したのは、日没の一時間ほど前だったが、すでに沢山の人々が集っていた。   
フラメンコを演奏する者、露天商も所狭しと商品を広げ、ラスタマンがこんにちは!と声をかけてくる。こちらは何人だが全くわからないのに、どうして日本人とわかるのだろう。
白色のシエラネバダ山脈を背景に、淡いピンク色に染められてゆく白い街並みと無数の糸杉に飾られたアルハンブラ宮殿。この旅で何度も脳裏に浮かんだ言葉が再び過ぎる。

こりゃ、カメラでは写せんわ。
要塞都市トレドと同様、アルバイシン地区もまた、敵の侵入を妨ぐ目的で、迷宮のように路地が入り組んでいる。迷宮の入り口に有るユダヤ人街には、自分好みの民族衣装がずらりと並んでいるが、すでにバックパックの中身はぎゅうぎゅうで、余計な物を詰め込む隙はない。
翌朝、9時半から、アルハンブラ宮殿ツアーに参加。
アルハンブラ宮殿の最大の見所であるナスル朝宮殿への時間は、厳密に決められていて、少しでも遅れるとチケットが無効になるらしい。
結構、時間ギリギリだったので、重いリュックを背負ってチケット売り場までの坂道をふうふう息切れさせて登り、ゲートをくぐろうとしたところで、リュックは持ち込み不可と告げられた。幸い、無料のロッカーがあり、身軽な状態で宮殿内に入ることができた。

縦軸の物語が展開されるキリスト教文化とは対照的なイスラム文化の装飾は、どちらかといえば、日本人にも馴染み易いのではないか。
アルハンブラ宮殿の野良猫は、毛並みが綺麗でどことなく上品で、やはり人懐っこかった。

高い所は苦手だが、まあ、行くしかないっしょ。 

グラナダ最後の訪問地は、詩人のフェデリコ・ガルシア・ロルカ記念館。ちょうど昼休みで中に入れなかった。
詩人で戯曲家で作曲家でピアニストで絵描きでもあった、グラナダ出身で、38歳でこの地で凶弾に倒れたロルカについて語り出したらキリがないが、フラメンコ文化の、今日の発展に多大な影響を及ぼしたことは、伏線として語っておこう。
夕方、高速バスに揺られること約3時間45分、次なるアンダルシアの地、コルドバに到着した。

コルドバは、個性的なファッションやこだわりの車に乗っている人々が多かった。
同年代くらいか、理知的な雰囲気の宿の主人の本業は弁護士のようで、幼稚園児にもわかるような英語で、丁寧にコルドバの見所や歴史を解説してくれるのだが、半分くらいしか理解できない。
英語すら話せないというのは、現地の人々からしたら、原住民にしか思えないのだろうが、今回の旅行記は、英語もスペイン語もろくすっぽ話せない日本人旅行記的側面もあると思うので、これでよしとする。
普通のマンション型の宿と思っていたら、どうやら自分ら以外は、主人の家族であることにしばらくして気づく。
格安のレストランやコルドバの見所を丁寧に紹介してくれたのは、親切であると同時に、家族のディナータイム22:00頃には家を開けて欲しいという思いもあったのかと、日本的気遣い気質で思い当たったのは、スーパーで買っできた食材とワインを食した後だった。
とはいえ、バックパッカー風情に、レストランなんぞ紹介されても困る。
旅に出てから、晩飯はほぼ毎晩、スーパーで買い込んだ食材を宿で食べている。大体、バゲットと生ハムとチーズとサラダとワインで、安くて美味く、飽きない。
レストランはともかく、マスターがイチオシしていた無料ライブには行くことにした。
夜10時を過ぎてから出発したのだが、路地のそこかしこで子供らがサッカーをしたり、談笑に花を咲かせている。
大人らも会社上がりほどのテンションで、寒空の下で酒盛りしては、お喋りし続けている。
スペイン人の多くが、昼に酒を飲み、昼寝し、夜の10時頃からディナーが始まるのはわかった。
とはいえ、一体、彼らがどのようなスケジュールで1日を過ごしているのかは、未だに謎だ。
ライブハウスは時間が押しているのか、DJがダンスミュージックをガンガンにかけていた。どうやらこの後にスペイン版のロックバンドが出演するようだが、まあいいかと、トイレだけ借り、3分で店を出た。
眠らない国の夜を散策し、コルドバで最もメジャーな観光地、メスキータとローマ橋の夜景を鑑賞し、宿に帰ったのは、僅か1時間後だった。

翌朝は、チェックアウト後にメスキータを観光する予定だったが、リュックを背負ったままでは入場はできないらしく、探したがロッカーは見当たらなかったので、早々にあきらめた。
まあ、宿でマスターが、メスキータの三次元バーチャル映像みたいなのをパソコンで見せてくれたから、それでよしとしよう。
街中をあてどもなく散策し、ようやく街並みに慣れてきた頃には、また別の街に移動だ。
夕方頃、余裕を持ってバス停に向かい、ロビーで缶ビールを飲みながら、ボケっと座っていたのだが、いつまで経っても電光掲示板に行き先が表示されない。
不審に思い、案内所で尋ねると、ここは電車の待合室で、バスは隣のビルよと告げられたのが、出発の10分前。眠気吹っ飛んだ。
だが、一度緩んでしまった危機感は、そう簡単には締め直せないことを、翌日思い知ることになる。

高速バスに8時間揺られ、首都マドリッドに到着。
モノトーンなバルセロナから一転、マドリッドは、さまざまな人種や個性がカラフルに街を彩り、満員電車で押し合いへし合いする大都会だ。

バルセロナでは、なぜか街中で大笑いしている人を全く見なかったが、マドリッドは東京に近い印象。さすがに電車で寝ている人はいないが。

どこの市場も地元の人々で賑わっている。
ネットなんかでは、移民らによるスリが多発していて、パスポートはおろか、現金さえ持ち歩かないほうがいいとまで書かれていたが、それほどの危険は感じなかった。まあ、その辺で酔い潰れていたら、話は別だろうが。
地下鉄の料金はバルセロナより安く、10回分のカードをそれぞれに購入し、2日間できれいに使い切った。それなりに入り組んではいるが、地下鉄マップさえあれば、まず迷うことはない。
到着して早々、まずはピカソの大作「ゲルニカ」が目玉の、ソフィア王妃芸術センターへ。

柔軟体操。
無料で開放されている時間帯の、15分ほど前から列に並んだのだが、ほどなく入場できた。
ピカソ作品に関しては、バルセロナのピカソ美術館より点数も多く、充実していた。
「ゲルニカ」は、未だに強い存在感を 発していた。
制作過程の写真が壁に貼られていて、写真と実物を熱心に見比べながら、スケッチを取っている美大生らしき若者の姿もあった。
プラド美術館も無料開放の時間があるし、絵画を学ぶ者らには、マドリッドは得難い環境なのだろう。
マドリッドに一泊した翌朝は、高速バスでトレドへ。最速の45分ほどの便で、あっと言う間に到着した。
もしもスペインに一泊だけするなら、迷わずトレドへ行けと言われているようだが、その意見も頷ける。
 
三方をタホ川に囲まれた要塞都市の周囲は高い城壁で囲われ、16世紀で歩みを止めた町と称される通り、コンパクトな中世へのタイムトリップを堪能できる。

カテドラルを無料スペースから覗く。
ギリシャ生まれの画家エル・グレコが後半生を送った住居や美術館を巡り、迷宮のように入り組んだ細い道を散策した。

旅に出てから、大体一日20キロ近くは歩いているようだ。
トレドの宿は清潔で使い勝手がよく、日本に旅行に来たことがある女将さんが、めちゃ丁寧に観光ポイントを教えてくれた。
基本的に、今回の旅ではWIFIを使える環境以外ではネットに接続しないようにしている。
目下のところ、オフラインで現在地まで知れるスマホのアプリ、maps meが大活躍しているが、入り組んだ路地などでは、しばしば反応しないこともある。
トレドの地図には、トイレマークも付いているのだが、何しろ敵をかく乱する為に作られた迷宮都市だ。まず、今どこにいるのかがわからない。
工事中現場のおじさんと兄ちゃんに尋ねるも、エルバーニョにもセルビシオにも首を振るばかり。トイレット!で、普通に通じた。アセオス!でもいけると思う。
トイレ事情にも、少し触れておこう。
基本的にスペインは公衆トイレが少な
く、あったとしても50セントほどかかる。
注意点としては、50セント硬貨以外は受け付けないことだが、そもそも、バルやレストランの多くは、一言伝えれば、普通に貸してくれることに、数日して気づいた。

翌朝、再びバスでマドリッドへ。
マドリッドの中心地であるマヨール広場は、 かつては闘牛や公開処刑なども行われていたようだ。
今でも夜は治安が悪いとされていたが、クリスマスの電飾や露店がひしめき、和やかな雰囲気だった。
パエリア頼んだら、バゲットまで付いてきた。お好み焼きやラーメンに白米が付く感覚だろうか。
スペインで食べたパンはどれも美味かった。外側がパリっと香ばしく、中がふわりと麦の味が広がる。日本の白米と同じ立ち位置なのだろう。
マドリッドでのメインイベントは、美術館巡りと決めていたが、巨大な美術館をハシゴするのは、かなり骨が折れる。
ソフィア王妃芸術センターは無料閲覧したし、さて次はプラド美術館か、ディッセン・ボルネミッサ美術館かの二択だが、マドリッドまで来て、プラド美術館に行かないわけにはいかない。
まあ、好みで言えば、印象派の作品が多いディッセンの方なんだけど。
 さすがと言うか、プラド美術館ほどの圧倒的な質と量の絵画を浴び続けると、なるほど、西洋絵画の歴史とはこのようなものだったのかと、腑に落ちるところもあった。
中世の時代の絵画は、どれも異常なほど緻密で、一枚の絵画というよりは、焦点によって様々な絵巻物が展開するような感じ。
キリスト教の文化にそれほど馴染みがない身からしたら、どれも同じにしか見えなくなってくる。
やはり、それ以後の時代の代表的な画家、ベラスケス、ゴヤ、ボッシュ、エルグレコなどがいい。
プラド美術館の目玉作品は、ピカソも執拗に研究したベラスケスの「ラスメニーナス」だが、バカみたいな感想だが、なるほど、このくらいのサイズだったのかと、腑に落ちた。
絵画に関しては全く詳しくないので、手法的なことはよく知らないが、ベラスケスやゴヤの、間近で見ると雑に見えるが、少し離れると写実的に見える手法に興味を持った。

さらば、マドリッド。
さて、いよいよ明日からアンダルシアの各地を巡る旅が始まる。
バルセロナで一番気に入ったのは、やはり、最初に歩いたゴシック地区だ。

ローマ帝国の国旗の役割を、各家庭の今日の洗濯物が担っているかのような路地の景観に、何度もグッときた。

バルセロナ名物、ガウディの建築物は、思わず笑みが溢れるような遊び心と、敬虔なクリスチャンの生真面目さを真空パックされたような、知的かつ幼児的な純粋さを感じた。

ビルのガラスに映ったガウディ。
日本人一番人気の観光地、サグラダファミリア。

とりわけ、サグラダファミリアにおける、内部を外部に反転させたような発想は、間違いなく、後世のクリエイターに莫大な影響を与えたことだろう。
後々、ゆっくりとガウディについて調べてみたいと思った。

ほんとに、まもなく完成するのかいな。
ピカソ美術館に関しては、やたらとベラスケスの最高傑作と称される「ラスメニーナス」のアンサー的作品の点数が多く、その執念に打たれた。
ガウディ建築に次ぐ人気の観光地、サンジョセップ市場で、歩きながらつまみ食い。
フルーツがどれもこれもバカ安でバカ美味い。

女子二人旅の日本人が、今のうちに大きいお札を崩しておきたいからと、50€紙幣を出して、おつりが明らかに少ないと言い合っている横を通り過ぎた。
自分らにとっては、かなりハードルの高い交渉になりそうだが、うまくお釣りを返してもらえただろうか。
地下鉄にはスリが多発するということだったが、最初に乗った車両に、見るからに怪しい輩が三人いた。
いきなりかよ!と、多少げんなりする。
単品野郎とカップルがチームなのかは分からなかったが、見張り塔からレーザーを発するごとく視線を走らせた。単品野郎はターゲットを変えたのか隣の車両に移動し、ふざけた風に抱き合いながらケツポケットから財布をスル予行演習をしていたカップルも、それぞれ別方向に歩いて行った。
地下鉄でスリらしき輩を見たのは、結局その一回だけだった。
まあ、鞄を前方に回してチャックを締め、気さえ抜いてなければ、擦られることはなさそうだ。

翌日は、カタルーニャの聖地、モンセラットへ鉄道を乗り継いで出かけた。 
田園風景にそびえる灰白色の奇岩が、朝焼けに銀色に輝く光景を拝めるのは、この季節、スペイン広場から7時36分発のカタルーニャ鉄道に乗る者の特権だろう。
ここが、今回の旅の最北端だが、標高も相まって、駅を降りると、いきなり冷蔵庫に入ったような寒さだった。
モンセラットは、12世紀に一人の羊飼いが洞窟で黒いマリア像を見つけて以来、カタルーニャ人にとっての聖地であり続けたとのこと。
幾たびの困難な状況でも、彼らは黒いマリアを守り続け、ここから決して移動させなかった。
ワーグナーもガウディも、ここで多くのインスピレーションを得たという。
繁忙期は長蛇の列になる黒いマリア像も、あっさりと拝見できた。
通常は13時からの少年聖歌隊の歌が、この日は11時からだった。おかげで、午後は別の予定を立てられる。

丘の上に立つ十字架、サンミゲル展望台へ往復の軽いトレッキングをし、礼拝堂に入ると、席はすべて埋まっていて、立ち見も多かった。
荘厳なパイプオルガンと、変声期前の透明な声の独唱に導かれるように、天使らの合唱が空間に立ち上がる。
撮影は禁止だが、そこかしこでシャッター音がする。
腰が痛くなってきたので、途中で退席。
バルセロナに戻って、予定していた名所の続きを巡り、翌朝、マドリッド行きのALSA社の高速バスに乗り込んだ。
イビサ島は、夏の繁忙期の、青い空ときらめくビーチと夜のクラブミュージックで有名だが、冬の閑散期はゴーストタウンと化す。

ゆえに、航空チケット及び宿泊費も格安となる。 
ということで、成田から深夜バルセロナに到着した翌朝にイビサに飛び、二泊三日でのんびりと時差ボケを解消することにした。
ただでさえ、スロースタートでシエスタという昼食後の昼寝が根ざした文化のスペインだが、そこに島効果まで加わって、イビサはとりわけスロースターターな島のようだ。
とはいえ、こちらは旅行者であり、いくらのんびり過ごすといっても、日の出前の8時頃には出かけていた。
イビサでは、三日間車をレンタルしたのだが、料金はなんと、三日間で700円。ヨメが運転し、免許証のない自分はナビマシーンと化した。
人口10万人ほどの島のハイウェイは、ひっきりなしに車が行き来し、市街は道の両側がすべてコインパーキングとなっており縦列駐車の車で溢れかえっていた。
島の収入源なのか、駐車取り締まり員らがひっきりなしにうろつき短時間の駐車違反も許してはくれない。
慣れない右側通行や円形交差点に加え、久しぶりのマニュアル車の運転に、こちらもハラハラだった。
円形交差点を知らない人に説明すると、ヨーロッパの交差点の多くは信号機がない。
中心部が円形のロータリーになっていて、いずれから侵入する車も、左回りで入り、出たい場所で右折して出て行く。基本的に、何度周回してもいいようだが、そんな車は見なかった。
最小限のルールの下に、流動的に交差する車の動きは、見ているぶんには気持ちがいい。

イビサ島の南西の小さな島、エス・ベドラ島の周囲は、世界で一番磁場が強い場所とされている。
夕陽スポットでもあり、時間になると人々がポツポツと集まってきた。

イビサの野良猫は、全く人見知りをしない。餌を与える観光客に媚び媚びだ。
こちらは、穴場的ビーチのサ・カレタにある謎の地下通路の入り口。複数の出入口は内部で繋がっている。穴があったら入りたくなる気質ゆえ、当然、すべての地下通路を制覇した。

高台から海を眺めていると、小笠原にいるようなデジャヴ感があった。やっぱ、島には共通する雰囲気がある気がする。
1954年から続いているヒッピーマーケット、Las Dalias。通常は土曜日開催、この日から年末にかけて、連日開催されるようだ。

相変わらずなのは、言葉の壁だ。
タバコ屋で金額だけ見て安い銘柄を買おうとした時のこと。
指差して、一番目立つ言葉「Fumar mata」を連呼した。その後知ったのだが、どうやらスペイン語で「喫煙はあなたを殺す」という意味だったらしい。道理ですべてのパッケージにその言葉が書かれていたはずだ。
「喫煙はあなたを殺す!喫煙はあなたを殺す!二個!その青!」
結果的には、指差しと、パッケージの青色が決め手となり、特に失笑されることもなく、購入できた。
わずか三日間の滞在中も、困ってそうな観光客を見つけたら、助けるのは義務だというように、ちょっとした親切をたくさん受けた。
縦列駐車に戸惑っていると、運転を代わってくれたり、バルに入ろうか迷っていると、向こうの地区の方がいいとか、ここめちゃ美味かったぜとか、教えてくれたり、ガイドブックやSNSでは全く知らされていない地元の穴場的な無料駐車スペースを教えてくれたり。
後半は雨に当たったが、それでも閑散期のイビサ、全然悪くなかった。
中心地イビサタウンながら、イビサ最安値の宿は、清潔でエアコンもあり、パーフェクトだった。
時差ボケもようやく抜けてきて、少しずつ眠れるようになってきた。
最終日の深夜、復路の飛行機でバルセロナに戻った。
今回、初の12人のドミトリー部屋は、暖房は効いていたが、昨日までの南国風フレグランスから一転した中学校の部室の臭いに、窓を全開に開け放った。
体内時計17時間のフライトを経て、空港からのバスを降り、バルセロナのカタルーニャ広場に到着したのは、日付が変わる少し前だった。バス停から宿までの徒歩20分で、早くも街の景観に心を奪われた。
どうやら、古くはローマ時代に起源を持つゴシック地区を歩いていたようで、さながらリアルなディズニーランドに迷い込んだようだった。
もちろん、ミッキーマウスは登場しない。夜の街の住人たちの多くが黒を基調とした服を着ているのは、中世の街並みと一体化したいという気持ちの現れだろうか。
とりわけ、カセドラルを臨む広場で、一人フラメンコを弾き語りしていた男と、その背景と一体化した音と演奏に聴き惚れている観客二人の姿は、ちょっと写真を撮ることすらためらうような、名画のワンカットのようだった。
着いたばかりの高揚感に、時差ボケ効果もあったかもしれない。多発するスリに目を光らせるのも忘れてはいなかったが、街に着き、どこかで一息つく前こそが、最も感性が際立つ時間なのかもしれない。
実際、チェックイン後に散策した印象は、やや危険な夜のストリートといったものだった。
宿とその近隣も13~14世紀頃の建築物のようで、バルコニーからの景観は最高だった。
部屋自体は料金に見合った感じ。
共同トイレの窓ガラスは割れたまま放置され、廊下の時計はいつからか時を止めていた。
英語は通じたが、そもそもこちらが通じてないわけで、猿と三歳児の中間程度のコミュニケーションしかとれない哀れな異国人に対しても、宿のスタッフはフレンドリーかつ親切だった。
石で囲まれた部屋は寒々しく、街を歩いた姿のまま、毛布にくるまりながら、まんじりともせず夜明けを迎えたってほどでもないが、二時間くらいしか眠れなかった。 
夜は酒を販売してくれないらしく、それが主な不眠の理由だろう。
翌朝、飛行機でイビサ島へ行く予定の身。諦めた。